The Concert for Bangladesh

 

今回ご紹介致しますのは、ロック史上初の大規模なチャリティー・コンサート

「バングラデシュ難民救済コンサート」です☆

 

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1971年8月 バングラデシュでの洪水による多大な被害に対して

ジョージ・ハリスンとインド出身のラヴィ・シャンカールらが中心となり

ニューヨークでチャリティー・イベント「バングラデシュ難民救済コンサート」が開催されました。

このコンサートは映画化され、 またライブ盤レコード「バングラデシュ・コンサート」として

発売され、 コンサートの入場料を含めた全収益金がバングラデシュに寄付されました。

この企画はロック界におけるチャリティー事業のさきがけとなります。

またジョージ・ハリスンはシングル・レコード「バングラデシュ」を発売し

この売上も全額が寄付されています。

 

 

 

恥ずかしながらわたくし、このバングラデシュ~ 先日初めて見まして・:*:・(*/////∇/////*)・:*:・

豪華な面子、素晴らしい演奏、最高の楽曲の数々に ただただ圧倒されてしまいました☆

ウッドストック、モンタレー、ワイト島、ニューポート、R&Rサーカス、ラストワルツ、 等など

大体この年代の企画物は20代の頃から一通り購入してきましたが、何故だかバングラデシュ

には手を出さず・・・・・

先日、 毎月足を運んでいる中野ブロードウェイの中にある中古屋さんでこのDVD見つけ

購入しました(^^ゞ 

2005年再発の 未発表映像加えた2枚組DVDデジタル・リマスター仕様でございます!!

 

 

 

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洪水による多大な被害に対して~ と上に書きましたが、

難民となったバングラデシュの人々は 洪水だけが理由で難民になったわけではなく・・・・・

そこには複雑な時代背景や 人種や宗教の違いから派生する問題などがあります★

ちょっと長くなりますが、 まずはその辺りの事から書いていきます。

 

 

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現在のバングラデシュ地図  首都:ダッカ

 

 

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現在のパキスタン  首都:イスラマバード

 

 

40代以上の方の中には子供の頃に世界地図を見て、当時のパキスタンが インドの

東西両端に千数百キロ離れた二つの国土を持つ奇妙な形態の国だったことを覚えている方も

いらっしゃるかもです。

 

1947年に英国の長年の支配が終わったとき、住民の信仰する宗教を基にして、

ヒンドゥー教徒の国インドと イスラム教徒の国パキスタンに

分離独立したせいでした。

 

ですが、 パンジャブ人主体の西パキスタンと ベンガル人主体の東パキスタンの間には

常に軋轢がありました。

人工の少ない西パキスタンの方が国を実質支配していたからです。

 

首都はカラチにおかれ、英国が残していった強力な権限を持つ高級官僚職のほとんどは

西パキスタン側が占め、ベンガル人は要職につけませんでした。

 

政治に大きな影響力を持っていた軍隊にしても、パンジャブ人が多数を占め、

ベンガル人で構成される部隊はわずかひとつしかありませんでした。

 

そして西パキスタンは歳入の大半を使って工業を発展させ、農業改革を進めたため、

必然的に両地域には経済格差が生まれ、東パキスタンの住民は強い不満を抱くようになります。

 

 

ベンガル人の民族運動は独立直後から始まり、

まず1948年に「言語運動」が起こります。

ウルドゥー語を唯一の国語にしようとした中央政府に対し、ベンガル語も国語にするように

強く要求する運動でした。

 

1949年にベンガル人の不満を代弁するアワミ連盟が結成され、

1952年にはベンガル語国語化要求のデモ隊に軍隊が発砲し、

死傷者の出る惨事となりました。

結局ベンガル語を国語のひとつに採用する結論が出されましたが、

この運動が民族意識に火をつけました。

 

 

そういった国内の問題に東西冷戦という時代背景が加わり パキスタンは米国から

共産圏封じ込めの前線として地政学上重要な国に位置付けられます。

 

1954年に米国と相互防衛援助協定が結ばれ、西側諸国から多額の援助が入ってくるようになると 国の財政は外国からの援助漬けとなり、軍隊と官僚の支配が更に強いものとなります。

 

 

60年代に入ると、経済格差はますます広がり、西パキスタンが東パキスタンを植民地として

支配しているという表現が使われるほどでした。

 

そこで、1966年にアワミ連盟のムジブル・ラフマンは東パキスタンの完全自治、

東西の経済格差の是正などを訴えた「6項目要求」を発表し、

毎年10万人づつ失業者が増えていた東パキスタンでは大多数の住民がその要求を指示します。

 

 

1970年の総選挙で、ベンガル民主主義を掲げたアワミ連盟は東パキスタンで圧勝し、

国会で単独過半数を占めることになります。

 

しかし、体制維持を図るヤヒヤー政権は選ばれた連邦議会を召集せず・・・・・

アワミ連盟がこの自体に猛反発し、独立への戦いを表明したところ、

71年3月25日に西パキスタンは軍による武力弾圧を開始。

翌日に東パキスタンはバングラデシュ(文字通り「ベンガル人の国」の意味)として

独立を宣言、 全面的な内線に突入します。

 

英国からの独立以来ずっと対立していたインドは一貫してバングラデシュを支援。

米国が支援する西パキスタンに対抗すべく、ガンジー首相はソ連と条約を結んで、

米国に衝撃を与え、中国にもこの紛争に関与しない旨の約束をとりつけます。

 

インドとパキスタンの間には緊張が高まり、12月3日に第3次インド・パキスタン戦争が始まり

インドが圧倒的な攻勢をかけ、12月16日にバングラデシュの首都となるダッカがインド軍の

手に落ち、バングラデシュの実質的独立が実現。

翌年1月にムジブル・ラフマンの新政権が成立します。

 

この10ケ月に及んだ戦争の間に、パキスタン軍とその地元での協力者の残虐な行為から

逃れるため、 バングラデシュの多くの人々が難民となって、国境を開いた隣国インドに移りました。

 

弾圧開始から1ケ月の間に100万人近い難民が生まれますが、5月末までにはインドへの流入の

毎日の平均は10万人を超え、合計400万人近くになっていました。

インド政府が国連に伝えた数字では、年末までに1000万人に達していたとされます。

 

この大量の難民の問題に、豪雨がもたらした洪水の被害が重なって、何百万人という人びとが

飢餓に直面し、生命が脅かされる惨事となったのです。

 

 

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この惨状に心を痛めたのが、インド国籍だがベンガル人のシタール奏者

ラヴィ・シャンカールです。

(昨年12月に92歳で亡くなられました。m(_ _)m)

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ジョージ・ハリスンシタールの師であり、

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ノラ・ジョーンズの実のお父さんです。

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ラヴィ・シャンカールにとっては 政治問題以上に個人的な問題でした。

1997年にジョージ・ハリスンと共に出演したVH1の番組で彼はこう振り返っています

 

 

東パキスタンがパキスタン政府と問題を抱え、分離独立して国名をバングラデシュに

することを望んでいる時期だった。 

言語の問題から始まって、その後大きな政治問題に発展した。

でも、私たちの心配は・・・・ 私の心配は そこに親戚が多く住んでいることだった。

彼らは難民になったんだ。 多くの子供たちがね。

だから、 そこで起きているすべてが私にはとてもつらいことだった。

そのとき私はベネフィット・ショウをやって、 2万か 2万5千か 3万ドルでも集めて、

送れるかもしれないと計画していた。

そしたら、ジョージがたまたまロスアンジェルスにいて私がどれほど不幸な状態なのかを知ったんだ。  

それで私が説明したら、 彼が言ってくれた

”その程度では何もならないよ。 もっと大掛かりなやつをやろう” と。

すぐに彼は電話をかけまくって、 まるで魔法のようにマジソン・スクエア・ガーデンを押さえ、

エリック・クラプトンボブ・ディランのような友人たちの出演を決めてくれた。

本当に魔法だったよ。 また彼は<バングラデシュ>という曲も書いてくれた。

そのおかげで、その国名は一晩で世界中に知られるようになったんだ

 

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バングラデシュの人びとを殺し、 故国から追い立てたパキスタンの軍隊は

米国政府の送った金と兵器によって成立していました。

米国ニクソン政権は バングラデシュでのパキスタンの非道な行為について

広く世界に知られてほしくなかったに違いありません。

 

それでもジョージは 「僕らは何かをしなくちゃ、それも早急に」 との思いから立ち上がります。

彼はそういった姿勢をジョン・レノンから学んだものだと語っています。

 

ビートルズのメンバーだったおかげで、僕が培ってきたことのひとつは

大胆であることだと思う。

それはジョンに影響されたんだと思うよ、 だってジョン・レノンは何かについて強く心に感じたら

とにかくそれをやった。

ジョンの友達だったことで、 そのことを身に付けたんだ。

それに向かっていく、 それをやるんだという姿勢さ

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71年8月1日に昼夜2回行われたコンサートは大成功を収めます☆

入場券売り上げから 24万3418ドル50セント分の小切手が

バングラデシュ孤児救済基金としてユニセフ(国際児童救済基金)にすぐ送られました。

 

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コンサート終了後 ラヴィ・シャンカールは喜びに満ち溢れた顔でこう語っています。

ジョージのシングル<バングラデシュ>、私のシングル、コンサートの映画、

発売されるアルバム、コンサートの入場料・・・・・・

全部を合計すればかなりの金額になるだろう。

それでも、800万人近い難民にかかる金額を考えれば、

もちろん大海原に一滴を滴らすようなものだ。  

たぶん彼らの2、3日分にすぎない。  でも、 それが要点じゃないんだ。

私たちが募ったお金の金額以上に重要な点は、コンサートにやってきた若い人たちが、

これまでほとんどの人が知らず、感じていなかったこと

ー バングラデシュについて、このような惨事がどうして起こったのか ー

について気づいたことだ。 これは火を点けようとするみたいなものだ。

できるだけ多くの人々にその責任について伝えていくきっかけになる。

その目的は達成できたと思うよ

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しかし・・・・・ その後に大問題が発生してしまいます・・・・・・

アルバムの売り上げと映画からの収益は最終的に 約1350万ドルものお金をもたらしますが

非営利の法人の主催ではなかった為、 米国のIRS(国税庁)が課税対象とみなし、

税金の支払いを要求されました・・・・・

 

さらに英国ではビートルズ所有のアップル・レコードが9年に及ぶことになる監査を受けている最中でした・・・・・

 

こういった事情により、 至急の援助に使われるはずだったお金が動かせなくなってしまいました。

最終的にユニセフにお金が届いたのは、 なんと11年もの年月が経ってからでした。

 

ラヴィ・シャンカールの言ったように、 それは「大海原への一滴」だったかもしれません。

それでもそのお金がすぐに届けられていれば 多くの命が救われていたでしょう。

ユニセフの調査によると、 その11年間にバングラデシュでは800万人以上の子供が

栄養失調または病気で死んだといいます・・・・  F★¥K IRS F※☆K MOGUL

 

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そういった苦い後味を残した部分もありましたが、

コンサート・フォー・バングラデシュ」はロック・ミュージシャンによる最初の大規模な

ベネフィット・コンサートとして、その後への良き先例となります。

その後に続いた人たちは その失敗点から学ぶことができたわけです。

 

ボブ・ゲルドフが<ライブ・エイド>の開催を決心したとき、

まず助言を求めたのがジョージ・ハリスンでした。

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71年の社会は インターネット時代の現在とはまったく違っていました。

当時は世界の或る地域で悲劇が起こっていても、その実情はなかなか他の国々まで

伝えられませんでした。

実のところ バングラデシュでの惨状はほとんど見過ごされていました。

一人のミュージシャンが曲を書き、 コンサートを主催するまでは。

 

冷戦下の国際政治の力関係の中で、 搾取され、 絶望の底にあった人々にとって

それは世界が自分たちの状況に関心を持ってくれている! と知ることができた、

文字通りの一筋の光でした☆

 

 

 

バングラデシュの首都ダッカに、 独立戦争を記念する小さなミュージアムがあります。

その戦争で殺された300万人近いベンガル人のシャツやサンダルなどが悲劇の証拠として

展示されていますが、 その壁には共同墓所の地図などと共に、

一枚のLPジャケットが飾られているといいます。

 

        

              参考文献 : レコードコレクターズ2005年12月号

 

 

 

 

 

 

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The Concert for Bangla Desh

  1. イントロダクション - "George Harrison/Ravi Shankar Introduction" — (5:19)
  2. バングラ・デューン - "Bangla Dhun" mdash; (16:40)
    (Composed by Ravi Shankar)
  3. ワー・ワー - "Wah-Wah" — (3:30)
  4. マイ・スウィート・ロード -"My Sweet Lord" — (4:36)
  5. アウェイティング・オン・ユー・オール - "Awaiting On You All" — (3:00)
  6. 神の掟 - "That's The Way God Planned It" — (4:20)
    (Composed by Billy Preston)
  7. 明日への願い - "It Don't Come Easy" — (3:01)
    (Composed by Richard Starkey)
  8. ビウェア・オブ・ダークネス - "Beware Of Darkness" — 3:36)
  9. バンド・イントロダクション - "Band Introduction" — (2:39)
  10. ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス - "While My Guitar Gently Weeps" — (4:53)
  11. ジャンピン・ジャック・フラッシュ~ヤングブラッド - "Medley: Jumpin' Jack Flash/Young Blood" — (9:27)
    Jumpin' Jack Flash (Composed by Mick Jagger/Keith Richards)
    Young Blood (Composed by Jerry Lieber/Mike Stoller/Doc Pomus)
  12. ヒア・カムズ・ザ・サン - "Here Comes The Sun" — (2:59)
  13. はげしい雨が降る - "A Hard Rain's A-Gonna Fall" — (5:44)
    (Composed by Bob Dylan)
  14. 悲しみは果てしなく - "It Takes A Lot To Laugh, It Takes A Train To Cry" — (3:07)
    (Composed by Bob Dylan)
  15. 風に吹かれて - "Blowin' In The Wind" — (4:07)
    (Composed by Bob Dylan)
  16. ミスター・タンブリン・マン - "Mr. Tambourine Man" — (4:45)
    (Composed by Bob Dylan)
  17. 女の如く - "Just Like A Woman" — (4:49)
    (Composed by Bob Dylan)
  18. サムシング - "Something" — (3:42)
  19. バングラ・デッシュ - "Bangla Desh" — (4:55)

 

 

出演者

 

 

 

バングラデシュ・コンサートのラヴィ・シャンカールの良い動画見つからなかったので

取り敢えず別物ですが貼っておきますね♪

その他ミュージシャンの映像も全曲貼りたいくらい素晴らしいのですが、

バングラデシュ・コンサートの動画、ジョージの2曲しか見つけられませんでした。

どちらも彼の代表曲なので、コンサートの雰囲気だけでも

わずかながらですが、 お楽しみ下さい。 ☆・:.,;*(。・ω・。)ノ

あ~~~しかし レオン・ラッセルがめちゃめちゃかっこイイのですよ~~~☆☆☆

彼が歌ってる動画貼りたかったな~~~★★★

 

 

                


Ravi Shankar on the Dick Cavett Show - YouTube 

 

 

 

 

 

 

 

 


George Harrison - While My Guitar Gently Weeps ...

 

 

 

 

 

 

 

 


George Harrison - Something (The Concert For ...

 

 

 

 

ではでは皆様また次回までご機嫌よ~(ノ´∀`*)ノ  PEACE!!

 

 

 

 

 


George Harrison - Bangla Desh - Lyrics - YouTube 

 


友達が 僕を訪ねて来た

悲しそうな目をして

助けて欲しいと 僕に話した

彼の国が滅びる前に

僕には 苦しみはわからないけれど

何かしなければいけないと思った

今 僕は みんなにお願いしたい

人々の命を救うため 手を貸して欲しい


バングラデシュ バングラデシュ

多くの人々が飢えて死んでいく

困難だらけのようだ

あんな絶望的な光景は 今まで見たことがない

君たちの力を貸して欲しい

そしてわかって欲しい

バングラデシュの人々を救おう


バングラデシュ バングラデシュ

なんという大惨事だろう

僕には理解できないけど

こんな苦しみは 初めて味わった

今 現実から目をそらさずに

君たちに 叫び続けて欲しい

バングラデシュの仲間達を救おう


バングラデシュ バングラデシュ

今 君たちは十分わかっただろう

厳しいけれど 逃げてはいけないのだ

僕らは この困難を拒絶することも出来るし

僕だって 何もしないで後で後悔することも出来る

でも僕は君たちに望む

君たちもいつか思うはず

無視してたら 君たち自身もいつか苦痛に悩まされるんだ

君たちは 本気で幸せな日々を知らなければいけない

バングラデシュの国を救おう

僕らは 日々起きている現実に直面しないといけないんだ


君たちの助けが欲しい

そして理解して欲しい

バングラデシュの人々を救おう!